パウロ鈴木。(本名:鈴木佳昌)

ラバーソウル・レコード代表
ミュージシャン

生年月日:1961年9月22日 
出身地:名古屋
血液型:B型

使用楽器:Hofner Cavern Solid Top( Proto Type)
Kay Jazz Special, Roland FP-8, EpiphoneSQ180...


ビートルズを知ったきっかけは?

小5の時。何気なくTVCMから流れてきた”LET IT BE"を耳にしたんだ。まさに脳天に雷が落ちた瞬間!! 「なんだ!!このかっこいいヨーロッパ調の曲は???」 大きなショックだったね。
その後は、毎日夕方に行くべき学習塾を親に内緒でさぼり、ビートルズ好きの悪先輩の家を訪ねては初めて買った”LET IT BE"のシングル盤を持ち込んでは、3ヶ月に渡ってそれを聴き続けたな〜。あっという間に1枚目は駄目になったよ(笑) 





■中2〜ビートルズコピーバンドを結成。
「ルースの1STの中ジャケにその時の写真が掲載されているよ。」

■高1〜WINGSのコピーバンドを結成。
「まさに気分は、OVERアメリカ!!ただしレパートリーには、クリムゾンの”風に語りて”も入っていんだ。」

■高3〜レッド・ツェッツペリンのコピーバンドを結成。
「世界有数のZEPコピーバンド”シナモン”のメンバーにも誘われたんだよ。」

■大学1年〜EL&Pのコピーバンド「GOMA」を結成。
「初めての演奏者として満足できるバンドだった。”聖地エルサレム”、”悪の教典第3印象、”ブルース・ヴァリエイション”なんかが得意なバンドだったな〜。人気も上上!!1曲8分の組曲なんてものも沢山創作したよ。創作意欲はピークだったね。」

■大学4年〜”癒し系のユニット”「アネモネ」を結成。
「スージーと二人だけではじめた。今で言う”癒し系のユニット”。コクトーツゥィンズやジョイ・デヴィジョンなどのポジティブパンクに影響されたんだ。エコー&ザ・バニーメンもよかった。このころ不思議とビートルズを思い出したね。」


■フリーター時代初期〜ベースマンとして渡り鳥生活
「名古屋のELLなどインディーズシーンに少しだけ出入りしてた。ブランキー・ジェット・シティーのドラマーも在籍した”ショッカーズ”などを手伝ったね。でも全然満足できなかったよ。」

■フリーター時代後期〜演劇のサントラを製作
「バンドに疲れて仲間でインディーズ・レーベルをはじめた。前衛的な音楽ばかり録音していたね。邦楽やポップスは無視。映画音楽も製作し現在は”1970”に参加しているている”こおじ”も参加していた。」


■1987年頃〜クォリーメンに参加〜名古屋スタークラブ
「六本木キャバーンの安本エージェンシーさんが、名古屋にビートルズとGSを聴かすライブハウスを開くというので、そのオーデイションを受けることに。実はこれ、最初はこおじに来た話で、同時期にパウロの方には”センチメンタル・シティー・ロマンス”のローディー/ツアマネのお仕事が来てた。そしてめでたくお仕事を交換っ!!」

「オーディションは”なんとかギリギリ”合格したものの、夜な夜な繰り返される”ビートルズのプロを目指すリハ”は想像以上に過酷だった。声が出なくなるのをはじめて経験したしね。先輩のリッキー氏、チャック氏、DADA氏(現WHISHING)、チャッピー吉井氏&リンゴ水野氏(当時は2人とも博多のキャバーンに所属)にはいろいろ教わったな〜。特にチャッピー氏らと中州の屋台で飲んだ頃が懐かしい。
そんなわけで、クォリーメンは、スタークラブにおいて無事デビュー!初のフルパートコピーに名古屋では、大歓迎&大人気だったよ。結構イケてた!!

■1988年〜六本木キャバーン
「移転で新装オープンとなった六本木キャバーンに”クォリーメン”としてレギュラー出演。バンドのプロデューサーにはリッキー氏が。東京に引越もして意気込んではみたみものの・・・
バンドは六本木では上手く機能しなかった。いろいろな壁や環境の違いで、以前はお客にうけた演奏やトークがすべて古くなっていたんだ。力を出せない・・・!!最低の時代だった。パウロへは京都キャバーンでの再修行・・・の指令が・・・」


■1989年〜ラバーソウル開店
「迷った末に東京居残りを決意。安本さんを退社しオリジナルでもやるかと・・・
そんな時「自分のビルを横浜の鶴見に建設中なんだけど、そこでビートルズのライブハウスをやろう」と、キャバーン時代の常連さんであった戸田氏からお誘いが。1年後には戸田氏が手を引くものの、パウロとスージーが経営を引き継いで現在にいたります。」

■プルーデンス結成
「ラバーソウルのハウスバンドとして結成したプルーデンス。いろいろな人が出入りしたが、オリジナルメンバーは新田氏以外みな引退(いまも新田氏はルースを、Drのテリー金さんは"1970"を手伝ってくれている)。このバンドでいろいろ培ったものはやはり大きかったと思う。みんなかなり成長したね。」

■1992年ビートルースに参加
「ADAM原氏(現ハート&ソウル)の紹介でビートルースに参加。サー・ジョージマーチン氏の「”A DAY IN THE LIFEを演奏させたらばビートルースが世界1である。」”というお言葉を頂きました。大投資をして製作した2枚のCDは各音楽誌で高評価を獲得。特に2枚目は、日本で一番の中後期トリビュートーアルバムと自負しています。」

 ■2001年ラバーソウル再開・・
ひょんなんことから02年6月初旬にLIVEハウスを再オ−プン。パウロの最終目標「完全なるビートルズ・ショーの出来るバンド、スパビ」も結成。六本木キャバーンにも凱旋しましたね。(スパビは2002年3月にて活動休止) 

■2002年4月ビートルース、1970・・
ハウスに出入りしている優秀な音楽家を集めて60〜70年代の名曲を演奏する”1970”を発案。このユニットはなかなか好評で札幌・神戸・伊丹・国立などにも御呼ばれされました。また、1970はシェイク木本氏をゲストにジョージ・トリビュートにも挑戦中。こちらも大好評ですね。
ルースは今も精力的に、活動中、やっぱ当店の顔バンドだね。爺さんになってもルースが続いていれば幸せです。


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